理性と感情
心理的防衛に「知性化」がある。感情的になることなく「理論」「知識」で自分と相手を納得させる防衛機制である。これはもちろん大切な防衛だ。理論や知識が「冷静」さを生むからだ。ただ時にそれは非情緒的、非人間的と思われる場合もある。
かつて共和党の父親ブッシュと民主党のデュカキスの大統領選があった。候補者の討論会で何かの法案に関して「もしもあなたの妻が性的暴行受けたら」と質問した時に、デュカキスは知性化で冷静に対応した。しかしブッシュは感情的になった。これを見た聴衆はブッシュを支持し、デュカキスの支持は低下した。精神分析家は「知性化」の行き過ぎとして説明する。
怒りたくなったり、頭にくることがあるのは精神科医も同じだ。
私も患者や家族に感情的になることもある。それについて、「感情的だ」と家族からも怒られたこともある。しかしブライドやメンツが傷ついたとか、批判されたかという次元ではなく怒っている(と、自分では思っている)。
「何で、何回も自傷行為するんだ」「どうして、あなた(親)は娘(息子)の気持ちがわからないんだ」と患者への同一化が生ずるからである。
ウクライナの情勢に対して米国国防省のカービー報道官が感情的だと指摘されたが、彼は、最初は言葉に慎重だった。心理学者でないので・・と何度も使っていたが徐々に感情的になっていき感情的になり人としての気持ちを伝えている。
彼の涙や言葉からは「愛」と「優しさ」が伝わってくる。これは演技や演出ではできない。偽物ではない言葉と涙は誰もがわかる。
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