境界性パーソナリティ
1980年代、私が卒業して入局した東海大学医学部の精神科は、精神分析と児童精神医学のメッカであった。全国から学びたい研修医が集まっていた。私が入局した時、東海大を卒業した研修医は3人、後の5人は国立大学から来ていた。当時のメンバーはそれぞれ大学教授になったり、開業して成功したり、名前が売れている人にばかりになった。
研修した病棟は「境界性パーソナリティ」治療の力動的入院治療が行われていた。右も左も上も下もわからない新米精神科医が最初に担当したのが境界性パーソナリティの患者達だ。リストカット、大量服薬、椅子を投げらたりもした。しかし、私は鍛えられた。境界性パーソナリティの病理や治療について若い時代に多くを学んだ。
パーソナリティ障害の人が生きていくのは、時にうつ病や統合失調症よりも困難を抱えている。私は障害年金のための診断書を書くが、パーソナリティ障害の言葉をいれただけで、審査会から拒否される。精神分析的理解を知らない生物学的精神科医(医学モデル)の人ばかりの審査会のなのだろうか。正直、この審査者は「何もわかっていない」と思うことがある。
境界性パーソナリティ……慢性の空虚、見捨てられ感情、突然の凹み、自傷行為など、私は何人も関わってきたし、今も、他院から(追い出されるように)紹介されてくる患者さんも診ている。神奈川に居た時代「境界性パーソナリティは診療いたしません」と張り紙をした病院があった。あの時の「憤り」は今も思い出す。「病院が見捨ててどうするんだ」と思った。
私は大学時代、医学部に友人が少なくて、文学部学生や工学部学生がいる安アパート、夕方になると突然の凹みが襲った。酒を飲み、パチンコ屋をうろつき、小説を読み耽った。こんな体験があったから境界例に関心が向いたのだろう。
かつて、境界性パーソナリティ治療の権威だったM先生が精神分析セミナーで言った。「君たちの中に境界例が好きな人はいますか」・・・私は好きなのかもしれない。私が捨てられることがあっても、自ら捨てることは絶対にしないと思う。私の思いが届かず、その孤独に向き合ってあげられず逝ってしまった患者さんの顔が今でも浮かぶ。死は残された人に悲しみと苦痛を残す。生きることが突然辛くなることもわかる。でも待っていれば幸せはくるはずだ。
死なないでほしい。少なくとも彼女や彼らの見捨てられ感情、突然の凹みには、すこしは私には同一化できる。
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